フォースのバランスについての考察

このコラムはドドンナ=カルリジアン・スカイウォーカー氏による投稿作品です。

なお、この考察文は恐ろしく長いので、それがお気に召さない方は最初から最後の方をお読みになることをおすすめします。

はじめに

フォースのバランスは、スターウォーズの一つのメインテーマと言えよう。しかし、にもかかわらず、未だその意味すら解き明かされていない。はたして予言が示す、「フォースのバランス」とは一体何なのだろうか?

「フォースのライトサイドとダークサイドの調和」がその意味であると言われている。なるほど、もっともに聞こえる。しかしながら、わたしはこれに疑問を抱いている。もしそうだとして仮定した場合、いくつかの矛盾があるのだ。第一に、それがフォースのバランスの意味ならば、なぜジェダイ・オーダー(以下ジェダイ)は、ダークサイドとシスへの理解をし、よいところを認め、少しでも調和をおしすすめようとはしなかったのか?もちろんこれはわたし個人の疑問であるが、恐らくみなさんも、この疑問にうなずかれることだろうとわたしは思っている。

そこでわたしが考えたのが、「ジェダイもフォースのバランスの意味を知らなかったのではないか?」ということである。これならば、先に挙げた矛盾もうなづけなくはない。

このフォースのバランスの意味は、恐らくEP3で解明され、そしてそれはSW全編につながるカギとなるだろう。だがわたしは生まれつきどうもせっかちな性質である。EP3まで悠長に待つよりは、自分なりの考察をここでしたいと思う。もちろんこれはわたし個人の考察であり、決して大衆に受け入れられる考察とは思っていない。また、以下の考察は、EP3が公開され、本当の意味での「バランス」が解明されたときに廃棄するつもりでいる。最後になるが、文章全般にわたり、ずさんで、長ったらしい文章であることをみなさんが寛容に了承していただければ光栄である。

精神説

わたしは結論を先に述べる手法を使うことがときどきある。今回のように、長くなる文章では、主にその手法を用いて語ることにする。したがって、このバランスに関する考察の結論が先にきてしまうことをご了承いただきたい。なお、ここでわたしは「人々」という表現を多用することになるであろうが、ぜひ「エイリアンも含めた知的生命体」としてこれを解釈してもらいたい。ただし、一部人間のみを考えることもある。ただし、この内には精神的になんらかのコントロールが可能な種族は含まない。それは今回扱わないことにする。(そうした種族はごく一部だからであるが、同時にわたしの考察がそこまでまわらないというふがいなさのせいでもあるが)

さて、一言でいえば、「フォースのバランス」とは「精神のバランス」である。

それはジェダイやシスたちだけの問題ではなく、すべての者にかかわるものである。すなわち、人々のフォースがここでは精神の代わりをしているのである。創造主ルーカスは精神的なバランスを「フォースのバランス」としてあらわしたのだとわたしは考える。これを「精神説」と呼ぶことにする。

抑圧

ジェダイは数千年前から銀河の平和と正義を守護し、叡智をつかさどり、フォースに従うことで知られてきた。彼らは常にその存在を(一般的には)肯定されつづけ、子供たちの憧れの対象であり、銀河の栄光のひとかどを握っていた。これが数千年も続けば、ジェダイに何か欠点があったとしても、その輝かしい栄光にかすんでしまうことであろう。大衆の心理とはそんなものである。ジェダイに抵抗する者をすべて異端者である。そう思われてきた。それが銀河共和国時代の、ジェダイのバックグランドである。

ジェダイたちがこれほどまでに栄光を維持できたのは、ひとえに彼らがダークサイドを受け入れず、ライトサイドを極めてきたからだろう。それ自体は悪いことではなかろう。しかし、その「極め方」がうなずけない。ダークサイドにつながるとされる、怒りや憎悪、悲しみをすべて抑圧するのである。それにつながるものであれば、個人への愛も、肉親愛も否定する。そして思いやりと相互理解を求める。いかにも美談の極めのようだが、そんな話はどだい、最初から無理な相談である。

怒りや憎悪、悲しみにかきたてられ、人を害し、破壊と殺戮に手を染めるのは確かによろしくないことである。特に、この世でただ一つの「自分の生命」を簡単に殺めてしまうシスの特質は、あってはならないことであろう。

しかしながら、ジェダイたちの行っていた感情の抑圧もまたよろしくない。感情は基本的に自分に率直なものであるのだから、それを無理に抑圧することは相当なストレスである。幼少時から行っていた場合は、これがコンプレックスと化すことであろう。怒りや憎悪はごく自然な感情なのだから、それがないというのはありえない。ジェダイは、いかに幼少時から感情の抑圧を行っているはいえ、決して怒りや憎悪を消しているわけではないのである。それは彼らの心に押し込められているだけであり、出てこないだけである。しかし、言いかえればそれは心に爆弾を抱えているようなものである。ひとたび何かが導火線に火をつければ、幼少時に感じていた怒りや憎しみが、一気に爆発し、破壊や殺戮に手を染めてしまうことだろう。もともと怒りや憎悪を経験したことがあまりないため、ちょっとしたことで爆発してもおかしくはない。それを訓練によって押しこめているだけなのだ。ジェダイのやり方は非効率かつ危険で、まったく彼らの望んだ結果からは外れているように見える。そこから生まれるのは、深層的な「むかつき」ややるせなさである。運よく多くのジェダイは師の愛の中で育ち訓練されたため、それらの気持ちも表に出ることはなく、「平穏な」ジェダイとしての人生を送れた。

解放

最初のシスはこれに疑問を投じたことだろう。彼らは恐らく、日々の訓練の中でたまっていく怒りや憎悪を抑えきれなくなり、訓練に疑問を抱いたと思われる。――なんでこんなに心がムカムカするんだろう…?どうしてこんなにやるせないんだろう…?また、自分の力を思う存分にふるいたいという思いもあったことだろう。もどかしかっただろう。こうして考えると、それはEP2のアナキンの変貌となんら変わりはないのである。多分そのシスも若者であっただろうし、ひょっとしたら誰かを愛し、またアナキンのように愛を失ったのかもしれない。ジェダイがシスに変貌する動機というのは、ほとんどの場合がこれに限られるだろう。力を放出したいという欲望、怒りや憎悪の抑圧に対する疑問…。それはある意味自己顕示欲であり、感情に率直に生きろという命令であるのかもしれない。どちらも人の本能が起こすものである。これを抑えることは、まだ理知に欠く若者には非常に難しい。

そして感情の解放を唱えた。感情の解放が、フォースを導き、自分に限りない力を与えてくれる。力を思う存分発揮できる。もう感情を束縛されることはない。すがすがしい。…シスはこう思ったに違いない。

正直、わたしもこんなふうに生きてみたいと思う。自分の心のなるがままに生きることは、本能に従って生きることであり、ある意味では、複雑なルールに束縛されない、ごくごく矛盾のない摂理に従うことだとわたしは思っている。だが現実はそうもいかない。思うがままに生きれば、必ずどこかで他人といざこざを起こすことだろう。そのいざこざを回避するため、ルールが存在する。これは否定できない。どこの動物の世界にもルールは存在する。一見知的でない彼らも、いざこざを回避する手段をこころえている。つまり、ルールは適切に必要なのである。同時に、「我慢」も覚える必要があろう。我慢もまた感情の抑圧だが、ジェダイの抑圧と根本的に違う点は、怒りや憎悪を経験し、そこで我慢する力を養っていくことにある。怒りや憎悪に動かされたところで、そこで我慢できる力を充分につければよいのである。これは高等な生物に見られる行動である。これはなまじ怒りや憎悪を表面的には感じないで、突然爆発するよりははるかにましであろう。これについては後で述べることにする。

シスの場合、感情の解放にルールがともなっていなかった。当然のことながら、問題が起これば、シスは感情に任せて、自分に逆らう者を排除する。結果的に破壊や殺戮に手を染めるのである。しかもダークサイドのフォースは、ジェダイのそれと違い、すばやくあふれんばかりの力を導き出すことができる。しかしそのかわり、その力に溺れる恐れがある。ほとんどのシスは、フォースのダークサイドの麻薬性に溺れている。解放にはこんな問題がつきまとうわけである。

アナキン・スカイウォーカーのケース

1. エディプス・コンプレックス

アナキン・スカイウォーカーは、修行をはじめてすぐにジェダイとしての片鱗を示しはじめた。そんな彼にとっては、オビ=ワン・ケノービの修行はひどく生ぬるく、物足りなく感じていた。一つには、若者にありがちな自己顕示欲としての「自分の力を存分に振るいたい気持ち」が彼の深層にあるからである。(わたしは心理学者ではないが、恐らくこれはメスの気をひく、オスの本能が根底にあると思われる)

アナキンにとって、オビ=ワンはどこかもどかしい存在であったと言えよう。

と同時に、彼はオビ=ワンに対してある種の憎しみに似た感情も抱いていたと思われる。基本的に古くからの親友のように親しく、師弟関係を築いているようだが、アナキンには、自分でも意識していない憎しみがあると思われる。その理由は恐らくエディプス・コンプレックスにあると思われる。これは、男児が無意識のうちに自分の母親に並々ならぬ愛情を覚え、逆に父親に対して憎しみをあらわにするものであり、マザコンなどとならんでコンプレックスの代表格かもしれない。わずか9歳で母親と別れたアナキンは、人一倍母親への執着心が強かった。そしてオビ=ワンに対しては、彼が自分で「僕の父にも等しい人」と言っているように、父として崇めていたわけである。ここであのエディプス・コンプレックスが適用されるだろう。ほとんどの場合、エディプス・コンプレックスは少年期に自然とおさまるものだが、アナキンの場合、物心ついたときから母親だけに育てられ、突然別れたことになるので、彼はコンプレックスをひきずっていたと考えられる。すなわち、心のどこかでオビ=ワンを憎んでいたのである。それが表面化したのが、EP2中盤でのパドメに言ったセリフである。「何もかもオビ=ワンのせいだ!…オビ=ワンは僕に嫉妬しているんだ!…オビ=ワンは僕が邪魔なんだ!」

これは間接的にではあるが、中に憎しみがこめられていることはいまさら言う必要もあるまい。彼のコンプレックスが表面化したのである。この感情や言動はいったんおさまるが、EP3においてそれがまた爆発するのではないかとわたしは推察する。そして、それがダークサイドという底のない滑り台の誘いとなるのであると考える。

2. 解放の欲求、後悔、矛盾

すでに少し触れているのだが、アナキンがオビ=ワンの修行、しいてはジェダイの体制に少なからず不満を抱いていたのは明らかである。事実彼はすばらしく強い戦士である。彼のライトセイバーのテクニックはオビ=ワンにひけをとらないし、過酷なバトル・ドロイド軍との激戦にも生き残った。それほどに強いからこそ、彼にとってはジェダイの修行というのがひどくもどかしいものに感じられたのである。抑えつけられた力は、一種男性諸兄がよく抱くあの欲望にも似たものである。

その力が、タスケンたちに解放された。砂漠の野蛮人たちも、彼の剣の前になすすべはなく、タスケンの集落は全滅した。ダークサイドの片鱗を示しはじめた瞬間である。それはアナキンにとって快感であり、感動すべきことであった。さきほどダークサイドの麻薬性について触れたが、やはりあれは力の解放に伴う快感があるからであろう。これらは、性欲の解放とある意味では等しいものなのである。

だがアナキンの場合、後でそれを後悔する。「自制心を失うべきでなかった」と。ところがこれに、パドメの慰めが入る。「怒りはごく人間的な感情よ」

さきほどわたしも述べたことであるが、これが一種のジレンマとなって、アナキンの心の棘になったとしてもおかしくはない。男性とって愛する女性の言動は絶対的であるといえるからだ。彼は今後、その言葉、同時にそれが示した「力」と、ジェダイの規律との狭間で苦しむことになるだろう。

3. 母親

(少なくとも)男性にとって、母親の影響力は絶大である。言語も母親のそれをそのまま学ぶ。そして自分を慈しみ、愛し、包み込んでくれる。口ではなんと言おうと、母親というのはとにかく男性にとっていつまでも母親でしかありえない、そういう存在なのである。また姉もまたしかり、という場合もある。思春期の少年は無意識に母親に似た、もしくは姉に似た少女を求める。(さきほどのエディプス・コンプレックスもそうだが、これらのことに関してはぜひ北 杜夫の「幽霊」を読んでほしい。エディプス・コンプレックスと母親と姉の面影に悩む青年を実にすばらしく描いている)

母親を失うことは、男性にとってあってはならないことに等しい。それが特に母親に対し愛着を覚える者ならばなおさらのことである。それは許されないこと、否定すべきことである。

母親の愛とはすなわちみずからを生まれたときから無条件に庇護してくれるものであり、自分にとって最大の守護者となるのである。それが失われることは、庇護してくれる対象を失ったとも言えよう。同時に、アナキンの場合、自分だけ奴隷の身分を解放されたことに対する後悔が心の奥にわだかまっており、それが「母親を救いたい」という思いに彼を駆り立てているとも言える。庇護してくれる対象も、救うべき対象も一度に 失ったアナキンの悲しみは他人事でも容易に想像はできないだろうか?そして、その悲しみが、「殺された」という理不尽さに対する怒りへ向けられたと言っても、それは恐らくアナキンだけの問題ではあるまい。パドメも言うように、それは「人間的」なものそのものなのである。

4. ダークサイドへ

アナキンは上にあげたようなことが原因となり、ダークサイドへの道へ入った。そこで彼は破壊と殺戮に手を染める。それは彼が「経験したこと」に対する怒りや憎悪、悲しみの現れと言ってもよい。エディプス・コンプレックスを感じ、力を抑圧され、愛を失った彼の心境は、「他のやつらも不幸にしてやろう」という気持ちの現れである。さて、この心境はどういう状態なのだろうか?

わたしは、転んでもただでは起きない→失ったものは利益として取り返す→他人を犠牲にしてでも自分の(心理的な自己満足が含まれた)利益にする…。こうした要素がアナキンの心境の焦点であると思う。前者は主によい意味では「向上心」、また響きがよくはないが、「しぶとさ」などと呼ばれる。後者は人間の利己主義である。これらはすべて我々が本能的に否定し難い要素であるのだ。これらの要素が破壊と殺戮へ直結するとはどうも信じ難い。しかし事実ではなかろうか?我々は自らの向上のために他人を犠牲にしないだろうか?いや、そんなことはあるまい。この場合、それが破壊と殺戮によって、失われた存在、憎悪と怒りの対象を埋め、自己満足する形になっただけである。自己満足もまた形なき空虚の利益である。

ルーク・スカイウォーカーとアナキン・スカイウォーカーの比較、ジェダイに無かったもの

ルーク・スカイウォーカーは、若いころのアナキンと同じく、多感な青年時代に育ての親をなくした。しかし、彼はそこでダークサイドに身を任せることはしなかった。当然したくともそれほどの力量がなかったのが最大の要因であるが、その後彼がフォースの道を歩む際にも、養父母を殺された怒りを表立って帝国との戦争にぶつけることがなかったのはなぜか?

まず、その場にオビ=ワンがいたことが挙げられる。彼がいなければ、ルークはヤケを起こして、何をしでかしたかわからなかっただろう。おりしも、ジェダイになるかならないか決心しなければならないときだったがゆえに、彼は、悲しみと怒りを抑え、ジェダイになることを決めた。それが幸いし、彼の目の前が真っ暗になる事態は避けられた。

わたしは――ほんのわずかの間であるが――自分の「帰る場所」を失いかけたことがある。そのときは、「なぜ自分だけがこうならなければならないのか?」という悲観的な考えにとりつかれ、苦しんだ。そのときに、改めて、いやむしろ初めて気付いたのであるが、人間というのはやはり帰る場所が必要なのである。それがない人間は、心と体のよりどころを失ってしまうことを意味する。それはとても理不尽で悔しく、哀しく、虚しい上に、怒りと憎悪を覚えるものであり、これこそジェダイがいう、ダークサイドの巣窟であると言えよう。ルークの場合、彼には、オビ=ワンという庇護者がおり、そして彼は自分の心のよりどころとなる存在であった。それがルークをダークサイドへ踏み入るのを防いだとわたしは考える。オビ=ワンの死後、ルークは新たな帰る場所を見つけた。それが同盟軍、レイアとハン(もちろんチューバッカや3PO、R2もだが)の存在であろう。こうした帰る場所があったことが幸いして、彼は哀しく、虚しく暗い道を歩むことはなかった。それがアナキンとルークの違いである。

アナキンはジェダイの修行と体制を窮屈に思い、恋愛禁止の掟を疎く思っていた。そんな彼には、オビ=ワンやその他のジェダイの存在は、完全たる「帰る場所」にはならない。また、掟にそむき、こっそりと結婚生活を送っているパドメもまた、彼にとっては完全たるそれではない。そんなときに彼は母親という、唯一の帰る場所であった“はず”の存在を失い、それが引きがねとなって、先ほど述べた事態――他人に危害を加えることで生じる自己満足という“利益”――へと進展したのである。

ジェダイの体制には、必要なはずなのに、無かったものがいくつかあるが、その一つが、仲間である。仲間は自分を助け、支えてくれる帰る場所であり、庇護してくれる対象である。同時に、自分もまた仲間を支え、庇護し、帰る場所をつくってやらねばならない。だが、ジェダイにはそれがない。

一見結束が固いように見えて、ジェダイはかなり単独主義である。複数行動はほとんどない(師弟関係は除く)し、EP2の処刑場での決闘で見せたあの醜態(バラバラに突進し、次々にやられていく)は、すなわち彼らのチームワークのなさである。古い友である何人か(メイスとオビ=ワンのように)こそ、あざやかなチームプレーを見せたが、それはごくわずかである。ジェダイは基本的に仲間意識が薄いのであるとわたしは考える。(ここでいう仲間とは、決して評議会のメンバーのような集まりではない。彼の結束はあくまでも厳格な評議のためにあると言える)

ジェダイは物心がつくと、すぐに師弟2人の閉鎖的空間で修行が始まる。わたしがもしもジェダイ評議会の長ならば、まずはこの制度をなくすべきであると思っている。我々人間は、集団生活の生き物である。人間は集団の中で助け合い、庇護し庇護され、協調し共存していく、そういう動物である。その中でこそ、人間は本当の人間らしさを備え、生き生きと出来るのであって、集団(そしてその中の構成単位)がすなわち帰る場所なのである。それは我々が本能としてわきまえていることである。(ここでの話であるが、基本的に主題は人間に向けられているのであるから、単独行動をするエイリアン族は、ここでは考慮しないこととする)それを否定するのは非常によろしくない。聞けば、集団の中でのストレスが悪い方向、すなわちダークサイドへ結びつくそうであるが、みなさんはこれをどう思われるであろうか?我々は集団で生きていて、そしてダークサイドのような暗い道へ転がり落ちるものなのだろうか?否、当然違う。逆である。師弟関係だけでは、人間性は生まれないのではないか?何か問題があるときのみ、厳格なマスターたちの評議へ放りこまれるのではなく、ジェダイは常々集団の中で学び、成長していくべきはないのか?わたしは強く思う。

それをルークが証明している。多くの仲間に恵まれ、帰る場所があることが、ルークの強みになっている。それがダークサイドへの誘惑を退けている。(ただしEP6ではこれを逆に皇帝に利用されたのであるが、結果としてダークサイドに落ちなかった理由は後で述べる)

アナキンにはそれがない。彼が友と呼べたのもせいぜいキットスターぐらいだし、彼が多感なときにはそんな存在もいない。なまじ特例であっただけに、彼がジェダイの中でもかなり孤独であると言える。少なくとも、EP2の中で、彼が信頼できる仲間を持っていたような描写はどこにもない。母親以外、(オビ=ワンが窮屈であると考えている)彼には帰る場所がないのである。

ここでの結論はやはり、信頼できる仲間と、それが提供してくれる「帰る場所」の有無の違いが、親子の人生を分けた、ということに尽きる。

彼はヴェイダーに対する怒りと憎悪を、(しいては帝国に対するそれを)ダークサイドのパワーに注ぎ、破壊と殺戮に手を染めるに至らなかった。それはなぜであろうか?彼は明らかに怒りと憎悪を感じ、しかもヴェイダーの誘惑に際しては、父親が彼本人であるという衝撃的な事実を告げられているのである。ジェダイ評議会ならばシス候補の筆頭にあがるであろう。それなのに、なぜなのか?

理性とジェダイと感情と

ルークは戦争で多くの戦友をなくしている。EP4でも、EP5でも。特にEP4ではルークが涙すら流している。彼は人の死というものを何度も経験しているのである。彼がアナキンと違ったのは何か?

…それは「理性」である。人間とは、本能に即した感情に流されやすいものの、そこに理性がはたらく唯一の動物である。さきほど「我慢」について触れた。これは「理性」であるといえる。ある程度の我慢、すなわち適度な理性は非常に重要である。これは多くの経験を積むことが、理性をより正しい道へ導いていくことになると思われる。間違いではあるまい。

多くのジェダイは、心の内に憎悪や怒りに対するコンプレックス、すなわち「心の爆弾」にも似たものを抱えて人生を送っている。いつ火がつくともしれない爆弾だ。それをうまくコントロールするのが師の役目であるといえる。アナキンの場合、このコントロールする存在がいないまま、ショッキングな「人の死」を経験し、心の爆弾が一瞬爆発してしまったのだ。この爆弾には麻薬性という2次現象も含まれているから、アナキンはこれに苦しんでいくことになったのだ。過去にもしもはありえないが、もしもジェダイ評議会、もしくはオビ=ワンが正しくアナキンの見た「夢」について考え、その行きつく先を懸念していれば、アナキンの心は変わらなかったはずである。それを任務のために押しこんだジェダイは、大きな失敗を犯したといえよう。一人の人間を、どうしようもない悲しみに陥れたのである。

ほとんどの人間は、多少の悲しみ、怒り、憎悪で人を殺したりはしない。それは長い間培ってきた理性があるからである。子供や少年にはまだそれが至らぬ部分が多々ある。それを補正するのが大人であり、それが当たり前の選択である。そのためには、感情を抑圧するのではなく、多くの感情を経験し、我慢させることを覚えさせることにある。わたしが小さいころ、キレると祖母はよく言ったものだった。「怒ったら深呼吸をおし」…これもよく行われる我慢につながる行動である。

ジェダイの場合、我慢という理性的行動よりも、最初から抑圧しているという、無理な理性的行動をジェダイにとらせている。怒りや憎悪がすぐにダークサイドへつながると考えているからである。しかしはたして本当にそうか?我々が小さいとき、ちょっと怒ったときに、人に飛びかかかることをして、それがダークサイドなのだろうか?わたしは違うと考える。それは経験に過ぎない。そこで抑える大人がいるかぎり、子供はやがて正しい方向へ――怒りや憎悪ですぐに暴力に走らないこと――導かれる。だが、ジェダイは違う考え方をしている。最初からその経験を奪い去り、コンプレックスを抱えさせ、いつ爆発させるとも知れない爆弾を抱えさせて修行を積み、世に送り出している。それがだんだんに掻き消えたとしても、完全に消えるものではない。それは様々な形で現れている。時としてジェダイが見せる凶暴性(メイスがジャンゴのわざわざ息子が見ているのに、首を切ったことなど)、自信過剰、独善主義などがその例である。また、オビ=ワンも、クワイ=ガンを殺された瞬間、一瞬その「危険な」面を垣間見せた。あのときのオビ=ワンもまた母親を殺されたアナキンに等しいとは言えないだろうか?たまたま彼が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされて怒りを忘れたからこそよかったものの、あのままダース・モールを倒していたら、彼もまた怒れる殺戮の戦士へと変貌していたのかもしれない。話を戻すが、このような形で、ジェダイたちのコンプレックスはその言動・行動に見えているのだ。それは一歩誤ればシスへの道をたどる原因である。老練のドゥークーですらそうだったのだ。いわんや若きパダワンをや。

わたしがここで結論付けたいのは、怒りや憎悪といった感情を真っ向から否定し、最初から経験させないことが間違っていた、そういうことである。知的生命体の「理性」による「我慢」などをさせず、抑えつけたことにより、逆に些細な怒りや憎悪で、とんでもない事態を引き起こしかねないほどに助長してしまっていると言える。いわば、怒りや憎悪に対する免疫に乏しいのである。多くの場合、我々にはそれがあるから、そう簡単に大変なことをしでかしはしない。だがジェダイにはありうる。彼らならば、爆発してもおかしくない。アナキンがいい例である。彼が抑えつけられた感情を爆発させたとき、それはジェダイの長きにわたる「修行の過ち」の証明のときであったのだ。

理性がもたらした結果

EP6において、ルークは皇帝に挑発され、心の高ぶりを抑えきれぬまま、ヴェイダーとの決戦に臨んだ。そこで彼の言動に激昂し、激しい攻撃を繰り出し、彼を追い詰めた。そのときの彼の姿は、まさしく母親を失ったばかりのアナキンのそれであり、怒りに任せて力を放出していたといえる。彼は圧倒的な力でヴェイダーの右手を切り落とした。だが彼はそこでとどめを刺さず、そして皇帝の誘いを拒絶する。なぜこうなったのであろうか?

わたしも含め、恐らく多くのファンが、ルークがヴェイダーの右手が――自分と同じく――機械であることに気付いたからであると思われるであろう。わたしも実際そう思う。一種の他山の石のような効果が、ヴェイダーの右手にはあると思われる。ルークは自分がもう少しで、父親と同じ道へ入りこむところであったことを、自分との共通点をもつアナキン=ヴェイダーの存在を再確認することで気付いたのである。もしもヴェイダーの腕が機械でなく生身であったらば、わたしは、ルークがあのままヴェイダーの命を奪っていたと考えている。

ここではたらいたのは、一端激しい怒りに身を任せてみたものの、あるきっかけをそこで与えられ、理性を取り戻し、冷静に判断ができるようになった、ということである。この世の中、こんなことは数え切れないほど多くあろう。もっとも、残念ながら、遠い昔から、理性を捨て去り、怒りに身を任せ、恐ろしいことをしでかした人間もまた数え切れない。ルークの場合は、あるいは幸運であったのかもしれない。

しかし、我々はこれから一つの教訓を得ることはできる。怒りを理性によって鎮め、正しい選択を行えることが決して理想論でないということである。当然と言えば当然であるが、しかし我々はなかなかこれを実感しないものであるのだ。我々がこれを再確認し、しっかりと理性を保って行動することがいかに大切かを、暗にルーカスが告げているようにも思われる。

感情がもたらした結果

自分の感情を押し殺し、ただ黙々と平和と正義に奉仕するのがジェダイである。だがわたしは、それが決して正しいことではないと再三述べてきた。いやむしろ、感情の放出が、すばらしいことを引き起こすこともあるのである。

EP6のルークとヴェイダーの決戦も決着がつき、その後皇帝の誘惑をルークが拒絶するくだりである。ルークは皇帝の電撃をくらい、文字通り悶絶していた。そのとき、ルークの「父さん!助けて!」という必死の叫びが、ヴェイダーの心を動かし、結果的に彼は皇帝を殺し、ルークを救った。

アナキンの行動は非常に衝動的で、感情的である。その意味では、アナキンが最初にダークサイドの片鱗を表したあの瞬間に似ていなくも無い。我を忘れ、ただ何かを実行しようとしていた、そんな心境である。だが、今回の行動は決して間違いではなかった(当然だが)。彼はルークという、“愛する”息子を救ったのである。わたしは子供などいないが、親としてはごく自然な行動かもしれない。深く掘り下げれば、それは子孫を絶やしてはならないと切に願う、生物の本能なのであるが、これも含めて、ごく本能的な気持ちが彼を突き動かしたのである。それは父親の愛であり、すなわち感情の放出であり、かつそこに理性はまったく存在しない。だがそれは怒りと憎悪による破壊と殺戮のような行動とはまったく異なる。同じ感情の放出といえど、ここまで違うものなのである。

高潔さと思いやり

ジェダイは銀河でもっとも“高潔な”集団である。…とされている。確かに彼らの奉仕精神はすばらしく、高潔さは正義と平和をつかさどる者としてはふさわしい姿勢であろうが、しかしわたしはこれに疑問を投じる。

はたして高潔さというのは、そんなに簡単なものなのであろうか?我々は常に高潔でいられるだろうか?そんなことはあるまい。むしろそうでないときの方が多い。基本的に自己を中心とした精神が、人間の本質である。これは否定できない。これをできるだけ他人への思いやりにつなげる心の持ち方はすばらしいが、しかし恐ろしく難しい。自分の利益にもならないことをしてよいことは何であろうか?人を守ったり、思いやったことに充実感を覚えるのならば、それははっきり言って自己満足にすぎない。それこそ、独善的で自己中心的な行動である。自分では他人を思いやり、高潔に行動したつもりでも、それが他人にとって苦しく、辛いものになることもある。高潔さを維持し、思いやる心をもつのは難しいことなのである。ジェダイは本当にそれを考えて動いているだろうか?少なくとも、本当に高潔で思いやりが溢れる者ならば、わたしならば、息子の目の前で賞金稼ぎの首を切り落とすことはしたくない。

もう一つ、矛盾がある。思いやり、すなわち(アナキン曰く)“無償の愛”である。ある意味でこれは神の愛を要求しているようなものであり、キリストの唱える隣人愛である。だがその前提にはまず特定の人物への深い愛情がなければならないのではないか?ある一人の人間を愛することで、人は本当の意味での思いやりや優しさ、誠実さを身につけていくものなのではないだろうか?ずいぶんと“じれったい”話であるが、真剣に恋をしている者というのは、(その者に対し)誰よりも優しく、思いやっており、見ていてとてもすがすがしい。スターウォーズの中で言うならば、ハンとレイアがよい例であろう。ハンとレイアのような、互いに思いやり、いたわりあっているカップルに不快感を覚える者はいまい。

同時に、注目したいのは、ハンがシリーズを追うごとに他人を思いやり、いたわっていっていることである。わたしはこれが、レイアを愛しているがゆえであると考えている。人間というのは面白いもので、誰かに恋していると、自然と自分がよく見られるよう、自分を磨き、他人にもよくするものである。これは知的生命体である人間のみならず、多くの動物が見せる行動である。

すなわち、人間は、特定の人物への愛情を発展させ、他人を思いやり、同時に自分を磨くこともできるのである。下心のある思いやりと思われるかもしれないが、少なくとも単なる自己満足のための思いやりなどとは違って、我々はそれを違和感なく行えるのである。

つまり、無償の愛を提供するためには、まず一人の人間を愛し、思いやる必要がある。わたしはそう思う。そして、多くの人がそう思っていると信じている。そもそもそういった“愛”を知らない者が、“無償の愛”を提供すること自体に無理があるのであるから。

…そろそろまとめに入ってきた。ここまで読めた人はかなり精力的だ…

結論

わたしはこれまで、感情の解放に従い、その結果破壊と殺戮に手を染め、しかし最終的にその感情の解放が息子と銀河を救った結果になったアナキンと、感情を解放してしまったが理性によって自我を取り戻し、正しき道を歩み始めたルークについて述べた。同時に、ジェダイがおかしたいくつかの過ちについても、わたしは述べてきた。これらを結論づけようと思う。

ところで、基本的に論文というものは、自分の意見と経験だけで書いてはならぬものである。しかしながらここまで読破していただいた諸兄は、恐らくわたしがそんな基本原則すら守っていないで、意見と経験だけを長々とつたなく書いていることに気付かれていることだろう。そこで、わたしは2つばかり、名著名論から引用したい。

まず、感情についてである。ジェダイは感情を無理に抑圧し、怒りや憎悪などを抑圧し、忌み嫌い、それを避け、言いかえれば負の感情から逃げてきたと言える。これについて、先日実にグッドタイミングな文学をわたしは目にした。ファンタジー文学の傑作、「ゲド戦記」(アーシュラ・K・ル=グウィン作、邦訳清水真沙子、岩波書店)シリーズの第1作目「影との戦い

ゲド戦記 I」(1976年第1刷邦訳版発行、原作は1968年、原作名「A Wizars of Earthsea」)である。ここではその一部を引用させていただく。

…主人公ゲドは、生まれながらにして魔法使いの才能に恵まれた人物で、若くして修行のため大賢人オジオンに引き取られる。しかし彼はそこで自分の高慢さゆえに、暗く得体の知れない「影」を呼び出してしまう。その後彼は魔法使いが魔法を学ぶ島ロークをおとずれ、そこでも才覚を発揮するが、しかし怒りや憎悪、高慢さによって、再び「影」を呼び出してしまい、その後その「影」に追いまわされることになる。衰弱したゲドは、オジオンのところに戻り、「影」に対抗するための知恵を仰ぐ…

ゲドはかたずをのんで、オジオンの口もとに見入った。ついに、その口が開いた。「向きなおるのじゃ。」 「向きなおる?」 「そうじゃ…(中略)…そなたを追ってきたものを、今度はそなたが追跡するのじゃ。そなたを追ってきた狩人は、そなたが狩らねばならん。」…(中略)「人は自分の行きつきところをできるものなら知りたいと思う。だがな、一度はふり返り、向きなおって、源までさかのぼり、それを自分の中にとりこまなくては、人は自分の行きつくところを知ることはできんのじゃ。…」

ここで言う「影」とは、すなわちジェダイにとってのダークサイドに他ならない。怒り、憎悪、高慢さである。「影」は、自分の心の油断、弱さをついて襲いかかり、そしてむさぼり食らおうとする。だがオジオンは、それから逃げるのではなく、正面からぶつかることを説いた。ジェダイとは決定的に違う。ジェダイは常にダークサイドの誘惑に気を配り、それを避けてきた。そして、彼らはそれを面と向かって、そのダークサイドの何たるやを知ろうとはしなかった。「行きつくところ」とは、ジェダイにとって「フォースのバランス」である。彼らがそれを達成するためには、何より忌み嫌っているダークサイドと正面から対峙し、向きなおり、それを追いかけていかねばならないのである。

その後、ゲドは「影」を追い始めた。今度は「影」が逃げる番だった。だがゲドは、世界のはてでそれを捕まえる。そして、「ゲド戦記」において、その者を支配する確実な存在、その者の真の「名前」を叫び、「影」を自分の中に取り込んだ。その名前とは、他ならぬ「ゲド」だったのである。自分の心の負の部分がうみだしたものは、自分そのものに他ならないのだ。そして彼は結果的に己の心の光と闇を一つにした、全き人間となったのである。

さて、これとジェダイを比較してみよう。ジェダイは、フォースのダークサイド、すなわち自分の心の負の部分に対し、どのように接してきたか?あるときは抑圧し、あるときはそれを忌み嫌って避け、またあるときは…。我々は、自分にとって都合の悪い部分をはっきりと見ようとはせず、それを抑圧し、あるいは忌み嫌って避け、またあるときは…。ジェダイもまたそうなのではないだろうか?

この作品について、翻訳者の清水真沙子氏は、実に見事な解釈を述べている。わたしの拙筆よりも、むしろ当然、彼女の方がはるかに主旨をついているので、わたしは勝手ながらこれを引用させていただく。

たしかに人は誰しも、自我に目覚め、己の内なる深淵をのぞきこんだその日から、負の部分である影との戦いを始めます。それは否定しようにも否定し得ない自分の影の存在を認め、それから目をそむけるのではなく、しかと目を見開いてその影と向かいあおうとする戦いであり、さらにその影を己の中にとりこんで、光の部分だけでなく、影の部分にもよき発露の道を与えてやろうとする戦いです。困難な戦いですが、おそらくはそれを戦いぬいて初めて私たちの「内なる平衡は保たれ」、全き人間になることができるでしょう。(「」部注はわたしによるものである)

ここで注目すべきは、「戦い」が本来の「戦い」という意味としてとらえるのは難しいということである。わたしはむしろ、「救済」であってもおかしくはないと考える。結果的に影の部分もよき発露の道を与えるということは、自分を救うことそのものなのであるから。ジェダイのように、本当の意味で自分の心の影と戦い、あまつさえそれを滅ぼし、もしくは封じこめようとしている。ありえないことである。我々が人間でありつづける限り、怒りや憎悪は人間性の一端なのであり、それを抑圧し、封じこめることはすなわち人間性すらも否定しようということである。翻訳者が述べるように、自分の影の存在を認め、それをとりこむことこそ本来のジェダイがとるべき姿だったのである。存在を否定することは、自分を否定することなのである。自分を否定したところで、そこにバランスはおとずれない。当然のことである。

では自分の心の影の部分をどのようにして認め、それをとりこんで一つにすることができるだろうか?我々はゲドのような魔法使いではないし、現実的に見ればそれは非常に難しいことである。

わたしは、それを成し遂げるものこそが理性であるように思う。ルークは、己の心の負の部分にそそのかされ、危うく殺戮に走ってしまうところだったのを、理性によって救われた。さらに理性にはきっかけも必要である。そのきっかけは運ではなく、(ルークの場合は運であったのかもしれないといわれてもそれは否めない)むしろ他者によって与えられるべきものである。我々が心の影にむさぼられぬように、自ら理性を呼び戻すことは難しい。そのために、誰かが、理性を取り戻させる必要があるのである。すなわち、自我を取り戻させる救済者が必要なのである。これは必ずしも難しいこととは言えない。

そもそも理性とはなんであろうか?「日本国語大辞典」によれば、「3.哲学で、人間の最高の認識能力」とある。…よくわからない話である。これについて、かの有名なトルストイは、己の著書「人生論」の中で、以下のように理性を定義している。

理性とは、「人によって認められたその法則であり、人生はそれによってまっとうされなければならぬものである」とされ、また、「理性こそは我ら生きとし生けるもののみなを一つに結合する唯一の基礎であることを確信している。(中略)理性とはすなわち、合理的存在なる人々が。生活するにあたってどうしても従わなければならない法則に他ならないものであるからである。人間にとって理性は――よってもってその生活を完成するところの法則である――動物にとって、彼らがよってもって成育史繁殖するところの法則と同じであり(中略)そして、わたしたちが自己のうちに、わたしたちの生活法則として知るところの法則は、世界のありとあらゆる外的現象がよってもって行われているところの法則であり…(以下略)

我々を結合するものが理性ならば、話はよりわかりやすくなるかもしれない。聖書のヨハネ伝福音書においても、理性(ロゴス)について、「「ロゴス(ロゴスとは理性、叡智などを示す)について、一切はそのうちにあり、一切はそれから生ずる…(以下略)」と言っている。これらは理性を説明するに十分な内容であろう。

まぁこれに従えば、理性は定義しようがないのであるが、これについてトルストイは先述の通りごにょごにょと難しく書きたてたわけである。注目すべきは、理性がこれらにおいてある種根本的な要素を占めている、ということである。

結論づけよう。わたしは、フォースのバランスとはすなわち心のバランス、「精神説」を説いてきた。

我々は、日々自分の心の中で、自分の心の負の部分と戦っている。同時に、自分の心の中に眠る愛や思いやりなるものを引き出そうと努力している。これらはどちらかに偏ってはいけないものである。負の部分はすなわち怒りや憎悪、悲しみなどである。これらはすべてがすべて、不必要かつ悪につながるものではない。そんなものはいちいち述べなくても理解いただけるだろうが、怒りや憎悪、悲しみは時として自分の新たなエネルギーになりうる。逆に愛や思いやりは、他人に苦痛を与えることがある。愛は時として嫉妬や独占欲をうみ、そしてそれは逆に怒りや憎悪となる。アナキン・スカイウォーカーの例は我々にそれを切実に伝える。同時に愛がなくてはならないものであるのであるから、物事はとかく矛盾、と言うよりはむしろ皮肉を帯びているものである。思いやりについても同様である。思いやりは他人を追い詰めることがある。思いやったところで、それが単なる自己満足に過ぎないこともある。

ジェダイも愛がうむ「副作用」については考えていた。ゆえに彼らは愛を禁じた。これは正しいのだろうか?もちろん、再三言っているようにノーだ。「バランス」である。言いかえれば、「適切な愛」ならば、それは推奨されるべき、いやむしろ義務としてのものであるといえる。怒りや憎悪についてはどうだろうか?再三言っているように、導き手である「誰か」によって、これらの負の感情もまたよい方向へと発露させることができる。ものは捉えようである。一つに固執しては何も始まらない。感情を解放しても、感情を抑圧しても、そこからは何もうまれない。まさしくこれぞ両極端である。

感情をもっともよい状態に整える術こそがすなわち理性であり、理性を導くには人の助けが必要である。抑圧された無感情な人間よりも、感情に心身を任せて凶行に走る人間よりも、他人を愛し、思いやり、また時として怒りや憎悪を無理やり抑えこむのではなく、よい方向へ導く努力をする人間の方が、より「人間性に富む」のではないか?

締めくくれば、「理性によって成り立った心のバランス」をもった、あるいはもつように努力している人間こそが本来の人間の姿なのである。

考えてみれば、SWの世界には、どれほど人間性に富んだ、すばらしい人々がいることであろう。アナキン、ルーク、レイア、ハン、ランド、人間ではないじゃないかと言われたら反論しようがないが、一応「猿人」なのでチューバッカも。まだある。ある意味では、ターキンや、ピエットや、いや待てストーム・トールパーの誰か一人とっても。(この意味では、クローン・トールパーは、ある種無感情の塊である)

彼らは怒り、恐れ、憎しみ、悲しむ。同時に誰かを愛し、思いやり、共に生きていこうと努力している。(ターキンやピエットなど、悪人役に回された悲劇の連中について、みなさんは彼らがまったく愛や思いやりがない人間であると言えるだろうか?)彼らは実に人間くさい。

ジェダイやシスは、その信念のあまり、「人間くささ」を失ってしまっていた。平和と正義のために、無感情を余儀なくされたジェダイ、感情を解放したがゆえにおのれを見失ったシス。みなさんはどちらになりたいだろうか?

…the strory of Luke, Leia and Han, and Anakin and Padme Amidala are very "human" and…  George Lucas

人間らしさを追及してやまないジョージ=ルーカスは、すでにフォースのバランスの何たるやを知っていることであろう。

補充

1. バランスをもたらす者は誰か

わたしの言う「心のバランス」たる「フォースのバランス」であるが、これをもたらしたのは誰か?理性に目覚めたのはルークであると言える。だがそのきっかけを与え、また感情がもたらす結果を明確に示唆したのはアナキンである。そしてルークはアナキンがいなければ生まれなかったわけである。こうしてみると、どっちが果たしてバランスをもたらす者かあいまいになる。正直、わたしは今までアナキンであると信じていたわけなのであるが、今白状すれば、もはやどっちでもよいように思える。ここのところはこのサイトのトピック「バランスをもたらす者について語る」で十二分に議論されているので、わたしのような者がいくら首をひねったところで本当のバランスをもたらす者は出てくるまいと思う。

2. アナキンの「お前が正しかった」の意味とは

EP6において、アナキンが死ぬ間際ににルークに言ったセリフである。これは「ライトサイドが正しかった」ととらえられるが、そうなると、じゃあバランスはどうなったんだこの野郎、ということになる。わたしはこう考える。「理性を導き、自我の心のバランスを取り戻したことが正しかった」と。いや待て、あるいは、もしかしたら、アナキンはバランスがどうのこうのをよく知ってなかったのかもしれない。

3. バランスが何かを知っていたかもしれない人々

まず、クワイ=ガン・ジンが挙げられる。彼は直感でアナキンがバランスをもたらす者でないかと思うのである。そして、彼はその意味を知っているように思える。事実、彼はジェダイにおいて体制や評議会に反発する一匹狼であったし、「生きているフォース」を主張していた。生きているフォースとは、すなわち躍動感あふれる、現実的な「人間くささをもった心」ともとらえられなくはない。わたしだけの意見ではないと思うが、クワイ=ガン・ジンはすばらしく人間くさいジェダイであるように思える。

次に、ヨーダである。彼がバランスが何かを悟ったのは、恐らくアナキンがヴェイダーに変貌してからではと考える。ヨーダはルークにフォースのダークサイドに気をつけろといったが、しかし、EP5において、そしてその後においても、彼は一言も、ルークの質問である「ではどうやったら善悪を見分けられるようになれるのですか?」に答えていない。わたしは、そのときのヨーダは、すでにフォースのダークサイドとは、わたしが先に述べたように、自分(ルーク)自身であることを悟っていた、すなわち、自分の心の影は、自分そのものであるのだから、それを善悪などの概念で簡単に見分けることはできないのだ、そういうことを考えていたのではないかと思う。これが意味するのは、ライトサイドもダークサイドも、自分の心の持ち方そのものであり、バランスとは自分の心のバランスであるということ、これを悟っていたのではないかと愚考する。

最後に

冒頭で述べたが、これら一連の考察は、すべてわたしの独断と偏見によるものであり、これについて意見、及び批評がある場合は、すなわちそれはそれを考慮し切れなかったわたしのせいであるので、そのときはすみやかにあやまりを訂正する。なお、意見、批評はチャットなどでご提示いただければ幸いである。再三になるかもしれないが、EP3が公開され、バランスの意味が明らかになれば、わたしはこの考察をすみやかに撤回するよう管理人じょじょ♪さんに依頼することを約束する。

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